主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。

みこころを知る道(2)2008.12. 2(火)B兄メッセージ(メモ)
使徒の働き 16章31節
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
親戚も知り合いの人も含まれています。そうすると、このみことばを本気になって信じるなら、「あの人、この人を救ってください」と祈らなくなります。「イエス様。あなたは約束されたから、あなたは嘘つきではないから、気前がいい方だから、嬉しくて嬉しくてしかたがありません。感謝します。期待をもって待っています」。これが信仰の現われです。
この信仰がなければ、主は悲しくなられます。
みこころかどうか、それをまず確信して、それから祈るべきなのではないでしょうか。
御座にまで届く祈りをしたいなら、御霊に導かれる祈りをささげなければなりません。大切なのは、祈りよりも祈りの前に、主は何を考えておられるか、何を約束していてくださったのかということを知ることなのです。この確信を私たちに与えるのは、もちろん御霊だけです。
前に読んだことがありますが、もう一度読みます。ローマ書8章26節、27節。非常に素晴らしいみことばです。初代教会の心構えを表わすことばです。
ローマ人への手紙 8章26節、27節
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
初代教会の人たちは、「私たちはイエス様に出会った。この目で見た」と言わなかったのです。「私たちは相変わらず弱い者です。弱い私たちを御霊が助けてくださいます」。
「私たちは、どのように祈ったらよいか分からない」。幸せな惨めさとでも言いましょうか。
何を祈ったら良いのかさえ分からないのです。しかし、問題はそうではないのです。分からない私たちのために、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、とりなしてくださる」のです。「聖徒」とは、「信じる者」です。
信仰と確信の欠乏は、主のみこころを知らないところからきています。ですから、多くの祈りが聞き届けられないのではないでしょうか。私たちの主のみこころをはっきり知るまで待ち望み、みこころを知った後、初めて行動するべきであり、感謝するべきなのではないでしょうか。
導きは、内に住みたもう御霊によってのみ与えられます。そして、この内住の主の導きは、すべての救われた兄弟姉妹に与えられている特権そのものです。
御霊の導きを求める場合、すべての物ごとは主の栄光のためである、ということを知らなければなりません。コリント第一の手紙10章31節です。